私が鬱を克服した話。

20年に渡るうつ病の闘病日記。現在同じ病気で苦しんでいる方、ご家族がうつ病の方の参考になれば幸いです。

ミーコ

私が当時住んでいた家の塀は野良猫の通り道だったらしく、

動物嫌いの母が嫌そうに話してたのを覚えていた私は、何気なくその時間に一階のリビングに向かった。

 

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うん、猫だ。

窓からすぐの所に塀があり、窓を開ければ猫に手が届く距離。

私がじっと見つめるとその野良猫もじっと見つめる。

最初はそれだけで十分だった。

 

次の日も、また次の日も同じ時間に私はリビングに降りた。

その度にいつもの猫と視線を合わせるのだ。

初めはふいっと行ってしまうだけだった猫も警戒心が緩んだのか、

塀の上に座って私を見るようになった。

 

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私はその野良猫を「ミーコ」と呼ぶことにした。

特に何かするわけではなかったけど、ミーコは毎日決まった時間に私に会いに来てくれていた気がする

窓を隔てた向こう側でミーコは座って私を眺めていたし、私もミーコを眺めていた。

 

ミーコが現れたことで、ずっと部屋に引きこもっていた私は自然と両親にミーコの話をするようになり、今思えば両親にとってそれはとても嬉しいことだったと思う。

 

 

ある日母がキャットフードを買ってきた。

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「懐いたらミーコ飼ってもいいよ」という言葉を添えて。

あの、超がつくほどの動物嫌いの母がそう言った。

母的にもやはり、部屋に引きこもりっぱなしの娘が毎日リビングまで降りてくるのが嬉しかったんだろうか。

 

比較的ミーコは早く私に懐いた。

(本当は野良猫を餌付けすることはいけないことですが!)

私の姿が見えないとニャーンニャーンと鳴いて呼び、

窓から手を伸ばすと撫でさせてくれるくらいまで仲良くなれた。

 

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あとはもう家で飼うまで秒読みの段階まで来た次の日のこと。

 

 

 

 

 

 

ミーコはその日から姿を見せなくなった。

 

 

 

 

来る日も来る日も私はリビングでミーコを待ち続けた。

でもミーコが姿を見せることはなかった。

リラックスした表情でお餅みたいに塀に座っていた姿が、ミーコを見た最後の姿。

ちらっと父が母に「近くの道で猫が轢かれていたけど…」と言っていたのを聞いてしまったけど、それがミーコなのかは今となってはわからない。

ミーコが来なくなってからしばらくして、

私はまた部屋に引きこもるようになったのは言うまでもなく。

 

 

しっぽが短くて白と薄オレンジの、

とても凛々しい顔つきの成人猫でした。

外の世界と(3)

うつ病になると性欲がなくなる、とか。

 

このあたりは人によって違うと思うので決して「性欲があるならお前はうつ病じゃない!」とかは言わないであげてください。

風邪を引いた時に「あなたは鼻から?それとも喉から?」みたいなのと同じように

性欲がなくなるというのはあくまでテンプレのようなもので

うつ病も、人によって症状が多少異なったりするものではないかと個人的見解。

 

 

当時の私は歳が歳だけに密かに恋に憧れていた部分がありました。

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フレメをきっかけにお付き合いを始めた人にうつ病を打ち明けるのは非常に勇気が入りましたが、そういったものに理解があり、あっさりと受け入れてくれて。

家族の他に『理解者』が現れ、少しずつ前向きになれました。

もう来なければいいと思っていた明日に希望を見いだせた。

メールを確認するのが楽しくなり、両親ともその話題で会話を交わすようにもなった。

 

ただ、

気分的には若干前向きにはなれたけど精神的&肉体的な回復はまだまだ程遠かったです。

やはり吐き気と言いようのないだるさがつきまとう日々。

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そしてちょっとしたことで落ち込み、それを何日も引きずってしまう。

さらに、うつ病になる前の自分と今を比較してしまってさらに落ち込むという負のスパイラル。

「こんなはずじゃなかった」

「治るビジョンが見えない」って延々と苦悩してしまう自分すら嫌になってまたベッドから起き上がれなくなったりもした。

 

そんな状態になってしまった時は、

あんなに楽しみにしていたメールを確認するのも苦痛だった。

外の世界と(2)

そうそう、フレンドメール。

掲示板で募集したらさっくり12人集まりまして。流行りってすごい。

私が募集したものは少し特殊で「そのゲームのキャラになりきって話す」…

いわゆる『なりきりチャット』というやつだったんですけども、

私の他にこれをやりたい11人の猛者がいたのは今思うとすごい。

 

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私はそのゲームで一番好きなキャラを名乗りました。

そのままキャラ名を出すとこっ恥ずかしいのでええと…ハナコ(仮)とでもしましょうか。

やばいですね。

この仮名のチョイスに若干の加齢臭がしますね。

 

まぁそれはともかくとして、

わたくしハナコが立ち上げたフレメ、もちろん多少のメンバーは入れ替わりましたが数年以上続きました。

他のなりきりフレメを見ても結構長続きした方じゃないでしょうか。

さすがにもう消えているでしょうが、スマホが登場する前後までは存在を確認しています。

 

 

そして当時16歳だったでしょうか。

うつ病といえど多感なお年頃。

メンバーの中に気になる人がいて、お付き合いなんかを始めたりして。

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他の仲の良いメンバーとも郵送で物を送り合ったりするようにもなり、

私にとってのフレメは外と部屋をつなぐ窓のような存在、

心の支え、生活の基盤にもなっていたんですね。

 

相変わらずごはんを食べるのは自室でしたが

この頃から少しずつ両親と話す機会が出来たと記憶しています。

外の世界と(1)

処方された薬のおかげで少しずつ、本当に少しずつですが自分の意思で体が動くようになり、ベッドから起き上がれるようになりました。

でも吐き気とだるさは常にセットで、ぼーっとテレビを観ては眠るの繰り返し。

 

そんな灰色の日々に両親が買い与えてくれたもの。

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それは

ポケベルが身を潜め、普及し始めた頃の…初期の携帯電話。

ベッドの上が世界の全てだった私が外界の一部と繋がった瞬間でした。

当時はまだインターネットなんて今のように普及していなかったので、

携帯でネットの世界を歩くのがとても楽しかった。

携帯とかって多少気持ち悪くてもいじれる。むしろいじることで気が紛れたりするじゃないですか。

当時の私もそんな感じでした。

携帯をいじっている時は少し気が紛れた。

 

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私の携帯はDocomoだったんですけど、当時のメールサービスの一つに

『フレンドメール12』というサービスがあったのをご存知でしょうか。

Docomoメールを12人一斉に送信することの出来る…

今でいうとグループLINEのようなサービスがあったんですね。

 

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そして当時、その『フレメ』を使って同じ趣味を持った人同士でメールのやり取りをするのが流行っていたんです。

私は早速、好きなゲームのフレメのグループを作って募集掲示板に掲げました。

…今思うとうつ真っ盛りとは思えぬくらいめっちゃ行動的ですよね。

こういうところだけ取り上げて「うつは甘えだ!」なんて言う人がいらっしゃると思います。

傍から見たらたしかにそうです。

でもそうじゃないんですよね…。うまく言葉に出来ない。

こればっかりは体験してみないとわからないだろうなぁと思います。

 私もうつ病にならなければ「あれさぁ、うつって結局甘えじゃん?」とか口走っていたかもしれません。

 

 

しかし、その謎の行動力が今後の私の運命を大きく左右するということを

当時の私は知るよしもなかったのでした。

初めての神経科

うつ病に関して名医がいるという少し遠くの病院。

私はそこに通院することになりました。

 

薄暗い「神経科」の待合室。きしむ椅子。つきまとう吐き気。

待合室の近くのトイレで吐き気が楽になるまでよく籠もっていました。

トイレの個室だけが私の安らぎのスペースでした。

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私の担当になったK先生はとても優しかったのですが、

当時の私はなぜ自分がこうなったかもわからず、いつもつきまとう吐き気に苦しんでいたので、カウンセリングといったような…特に何かを話すことはありませんでした。

K先生もそれを察してか、毎回聞くのは

「ごはんは食べれてる?夜はちゃんと眠れてる?」くらい。

通院は親と一緒だったので、大事な話は親が代わりに聞いてくれていました。

 

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起きることさえもきつかったので、当時は『通院する』という行動がとても苦痛だったのを覚えています。

「辛くて行きたくない」と泣いて両親を困らせてしまったことも多々ありました。

わがままではなく本当に辛かったのです。

 

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当時、処方されたのは

・コンスタン0.4mg錠

テトラミド錠10mg

 

「不安を取り除いてくれるお薬」と「眠れるようにするお薬」だと

K先生から説明を受けましたが、

当時の私は「心の病気になってしまった…」というショックでいっぱいでした。

   

ぬけがらの日々

ベッドから起き上がれない。

食事はおろか、気持ちが悪くて唾も飲み込めない。

 

そんな地獄のような日々が続きました。

 

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今まで当たり前のように出来ていたことが出来ないということは

想像以上に苦痛を伴います。

そして何よりショックです。

 

この時期の頃の私を両親はのちにこう語ってくれました。

「原因もわからず、日に日にやせ衰えていく我が子を見ているのが辛かった」

「不謹慎だけど この子痩せると美人ね と思ってしまった」と。

 

この頃はうつ病なんて今の時代ほど認知されていませんでしたから

両親はとても苦悩したと思います。

食事を摂れないので病院に引きづられるように連れて行かれ、

点滴を受けてる最中に医師が訝しげにぽつりと言ったらしいのです。

 

「これはもしかしたらうつ病ではないか」

うつ病が発覚した瞬間でした。

うつ病になったきっかけ

実のところ、何がきっかけなのか自分でもよくわかりません。

私は当時中学3年生で地味でおとなしかったですが友だちもおり、いじめも特になく、それなりに楽しい学生生活を送っていました。

 

ある朝、いつものように起きるとどうも調子がおかしい。

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風邪のような…だるさ。

 

熱や咳といった症状がなかったのでそのまま登校しましたが、

全校朝会で気分が悪くなり、保健室へ。

一週間ほどそれの繰り返しだったと思います。

(思います…というのは、この期間の出来事は夢の中で起きたかのような曖昧な記憶でして)

 

 

謎の体調不良に悩まされている中、入院していた祖父が亡くなりました。

祖父のいる病院に駆けつけたまでは大丈夫だったのはたしかです。

しかし、葬儀に参列している最中でいいようのない吐き気に襲われました。

その場で立っているのも辛くなり、母に「しっかりしなさい」と叱咤をされつつ叔母に付き添われて葬儀場のトイレで苦しんでいたのが最後の記憶。

気づいたら自分の部屋のベッドで寝ていました。

その時から私はベッドから起き上がることが出来なくなってしまいました。

 

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こうやって見るときっかけは「祖父の死」…ではあるのですが、

祖父とはそんなに親しかったわけでもなく。

当時担任で私が大好きだった教師が妊娠して学校を辞めるという件も視野に入れると、『別れ』がきっかけだったのかもしれませんね。